「恋人が欲しい」がわからない

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「恋愛しないの?」「恋人作らないの?」と聞かれることが最近増えた。正確に言えば、人と会う機会が増えたので、そう聞かれることが増えた。

 

「恋人作らないの?」ということばの響きに心がもやりと動くのはどうしてなのだろう。そういったことを聞かれるのが嫌ではないのだけれど、わたしはそのたびにうーんとか、そうだなあとか、ふわふわしたことばしか返せなくなってしまうのだ。

 

恋人は作るものじゃないとか、恋はするものじゃないって突っ込みたくなるからかもしれない。

そりゃわたしだって、すきな人がいればおいしいごはんを食べに行って、「ごはんを食べながら泣いたことはある?」とか聞いてみたい。そんな中でふたりの関係が‘‘知人’’からゆるやかに変化していく様子をちょっと遠くから眺めてみたい。「僕」と「俺」を使い分けるタイミングを知りたい。

 

前に、こんなツイートをした。

正直手伝ってくれるのなら恋人じゃなくてもいいのだけれど、恋人がいてくれたら…と思う瞬間を挙げるとすればこのくらいしかないっぽい。(このツイートをしたときに自覚した)

 

やっぱり、恋人が欲しいという感覚はわからないし、恋人を作りたいとも思わない。

これ、もしかして表現の問題なのかな。わたしはそのことば自体に「なんか違う」と感じているだけなのかもしれない。

「恋人が欲しいじゃなくて、あの人が欲しい・人肌恋しい・同じ釜のごはんを食べる人が欲しい、のどれかじゃないのか?」と思うのだけれど、そういった意味ではないのだろうか。

 

 

「恋人が欲しい」と口にする人がどう考えているのか純粋にすごく興味があるので、今度いろんな人に聞いてみよう。

存在を祝福する

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過去と対話する機会があって、そのために米津玄師のLemonを聴いたら嗚咽が止まらなくなるほど泣いてしまった。悲しみという名の水が身体のなかに溜まって、たぷたぷ音を立てている。

 

悲しみをバネに行動しろ、悲しむことなんて生産性がないと外野のわたしが煩い。こういう時は「お前外野だろ」って締めだして悲しみに浸るのが一番だ。

 

外野のわたしがそう言うことで鼓舞される時とそうでない時の違いは、「今自分でどうにかできる問題か」だろう。自分の力ではどうしようもない答えの出ない問いには参ってしまう。「そうなる運命だった」「神様は乗り越えられる壁しか用意しない」、自分を説得する言葉なんて幾らでも思い浮かぶし、理由をつけたほうが楽になれることだって知っている。

 

(理由をつける=丸め込もうとしている訳ではないことはわかっているが)そう簡単に丸め込めるほど大人でもなくて、そもそもそんな簡単に丸め込みたくなくて、こんなふうに時おり過去へ歩み寄っては中学生の自分を抱きしめている。

もし今その頃に戻れたとして、目の前に現れた未来のわたしが「運命」の2文字で説得してきたら、あまりの残酷さに命を絶ってしまうのではないかと本気で思う。

 

「これで良かったのだ」と思う瞬間も増えてきてはいるけれど、根本的には何も解決していないし今後も解決することはないという事実こそが悲しみの原因なのかも。

 

そういえば、ブログのタイトルを「存在を祝福する」に変えた。過去も含め世界のすべてを愛し、すべての存在を祝福したい。過去のわたしは、今のわたしの光である。

 

 

 

 

体調が悪いと、泣き出したくなってしまう。

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今日は、朝からひどく身体が重かった。頭はズーンと鈍く痛み、肩のあたりに何かが乗っているような気もした。

 

体調が悪いと、泣き出したくなってしまう。「体調が悪い」と言葉にする前に、涙がひと粒ぽろりと零れることもある。

 

そんなときは決まって、子どもの頃を思い出す。

 

家族4人で団らんしていたのに、いつの間にかこたつの横で眠ってしまって、父がお姫様抱っこで2階のベッドまで運んでくれた日のこと。

学校に行けなかった日の夜、母がわたしの部屋のドアをそうっと開け、眠るわたしの額をやさしく撫でてくれた日のこと。

家族4人で遠出した帰りに後部座席に横たわり、父と母の楽しそうな話し声を聞いていた日のこと。

 

浅い眠りのなかを行ったり来たりしながら、そして時おり寝たふりをしながら、父や母の愛を享受していたあの頃。

 

 

体調が悪いとき、怒られたとき、悲しいとき。最初に出てくるのは言葉ではなく、涙だ。

 

昔からそうだ。父母の「泣くな」「泣いても解決しない」と荒立つ声を聞くと、さらに泣けてきた。そのうちに「大人に言ってもわかるはずない」と思うようになった。

 

泣いても解決しない。それは間違っていない。けれど、その瞬間の悲しい気持ちをうまく言語化できずにいた幼い頃は、涙を流すことしかできなかった。

 

父や母を責めたいわけではない。

ふたりにとってわたしは初めての子どもだったのだし、正解なのかわからない道を進むのは不安だっただろう。ふたりも人間だから、別のことで気分が悪かったのかもしれないし、完璧な子育てを目指そうとして思わず強い言葉が出てしまったのかもしれない。

 

ただ、将来わたしに子どもができて、我が子が何も言わずに泣き出すことがあれば、「泣いていいんだよ」とやさしく抱きしめたいな。泣き止んだら、目を見て話を聞きたい。決して声を荒げたりせずに。

子育ては戦争のようなものだから、そんな時間的・精神的余裕はないかもしれない。けれど世で言うところの‘‘完璧な子育て’’ばかり追っていては、目の前にいる我が子が見えなくなってしまいそうだ。

 

父や母が「言い過ぎたな」「失敗したな」と思っていたとしても、今わたしはプラスに受け取れている。それらがなければこうして将来を見つめることもなかっただろうから感謝しているし、これで良かったのだ。

 

過去の小さな選択や言葉が、今へ、未来へと繋がっていく。なんだか嬉しくて仕方ないなあと思いながら、零れた涙を拭いた。

 

 

三日坊主が運動を続けられている理由

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こんばんは、めくばせです。

昨日、こんなツイートをしました。

 

 

‘‘運動嫌いのめくばせ’’という名を馳せまくっていた三日坊主のわたしが、なんと、なんと1週間も運動を続けられています。天地がひっくり返るか、あるいは雪が降るかもしれません。

 

継続というにはまだ短すぎますが、約1週間で気がついたことを書きます。

 

 

継続できない2つの理由

好きなことには寝食を忘れるほど熱中し、そうでないことは三日と続かないわたし。

 

今回運動を続けてみて、気がつきました。

 

➀目的がはっきりしていない

②ルールのハードルが高すぎる

と、継続できない。

 

目的やゴールがなければ、どこへ向かってどのくらいの速さで走ればいいのかわからなくなってしまう。

 

最低限のルールがなければ、「今日はこのくらいでいいだろう」と自分を甘やかしてしまうに違いないし、そんな自分に「やっぱり自分はこの程度の人間なのだ」と諦めのような感情を抱く(当社比)。

 

わたしも含め、継続できない人って「ルールのハードルが高すぎる」のだと思います。

 

目的やゴールがはっきりしていても、「早く成長しなくちゃ」「早くたどり着かなくちゃ」と気持ちが焦ったり自分を過信すると、「これくらいできて当然」と思うようになり、ルールのハードルが高くなっていく。

 

そういう状態で始めると目的が‘‘ハードルを越えるため’’にすり替わるし、ハードルが高すぎて結局続かないんですよね。

 

目的を設定→最低限のルールを作ったら続いた

今回の目的を達成するためには、どうしても運動をする必要がありました。

 

好きではなかったけれど、やるしかない。もうごめんだ。自分にも、自分の未来にもガッカリしたくない。

 

そんな思いで最低限のルールだけを作り、運動を続けていると、あれ?なんだか楽しい。あれ?少しずつだけれど結果がでてる。

するとさらにやる気がでてきて、どうすればより楽しめるか、ゴールに近づけるかを現実的に考えられるようになりました。 

 

 

SHE lovesのWebデザインコースでも同じようなことを感じたのですが(SHElovesデザインコースを受講して - 秋とアイスと目配せと)、

続けていくうちに楽しく感じられたり、好きになったりするんですよね。避けていたけれど、運動も同じでした。

  

まとめ

はー、今このタイミングで気づけてよかった。

今回の2点に加えて、最近「とりあえずやる精神」が板についてきたことも理由の1つかもしれません。(今気がついた)

 

今日のブログを読み返してみたら、

 

好きではなかったけれど、やるしかない。もうごめんだ。自分にも、自分の未来にもガッカリしたくない。

 

と書いていてびっくりしました。自分にちょっとだけ期待してみよう。

 

 

水のような女性になりたい

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こんにちは、めくばせです。

 学生時代、大の古典嫌いだったのですが、今日から中国古典を読み始めました。

 

今日は『上善如水(上善は水の如し)』という老子のことばと、数年前からわたしが公言している「水のような女性になる」とはどういうことなのか考えてみます。

 

 

今必要なのは、自分の‘‘在り方’’を定めること

冒頭でも書いたとおり、学生時代から古典や歴史の授業が嫌いでした。

退屈な日々を遠くから眺めるだけの毎日に、先人の知恵や歴史の知識が必要になる日がくるとは到底思えなかったのです。数学嫌いの学生が「数学って人生に役立つのか?」と疑問に思うのと似ていますね。

 

そんなわたしに、古典を開く日がくるなんて。

 

きっかけは、情報過多・流れの速い現代で必要な情報を正確に受け取るためには、自分の基盤や在り方が定まっていなければならないのでは? と思ったからでした。

現にわたしが「自分を持っている」「軸が定まっている」と感じさせられる人は、たいてい古典を読んでいますし、実生活に役立てています。

 

今の自分に必要なのは、流行りのビジネス本などを読んでこの瞬間の解決策を見出すことよりも、受け継がれている先人の知恵から学び、自分の在り方を定めること。

 

先人のことばからあれこれ考える様子を楽しんでいただけたら嬉しいです。(笑)

 

水のような女性になりたい

毎回つっこまれるのですが、わたしの目標は「水のような女性になる」こと。

 

ゆるやかな曲線を描いてグラスに注がれる水は、次第に波が穏やかになっていき、ただそこに‘‘在る’’状態になります。グラスをゆらすと同時にゆらりとして、どこまでも透き通っている。なめらかで、強くて、まっすぐなんです。

 

そんな女性になりたいけれど、理由としては弱い気がする。まだうまく言語化できておらず、輪郭がふわっとしているような……。

 

そう感じていたわたしは『上善如水(上善は水の如し)』を知りました。なにか参考になるかもしれません。

 

もっとも理想的な生き方は水に学べ

上善如水(上善は水の如し)

 

これは、老子に記されている言葉。

「上善」は「もっとも理想的な生き方」を指し、そういう生き方をしたいのなら水に学べ、という意味です。

 

水に学ぶべき点は3つ。

  1. 柔軟さ
  2. 謙虚さ
  3. 秘めた巨大なエネルギー

これらを身につければ、人間のもっとも理想な生き方に近づけるのだそう。

 

どんな器に入ってもそのままの形に変わり、自分を主張せずに自然に低いほうへ流れる水。「水」を「川」と解した場合、遠くから眺めると静かだけれど、近くで見ると流れが渦巻いています。

 

この3点に水のような女性になりたい理由を振り分けてみると

  1. 柔軟さ→ゆるやかな曲線、グラスを動かすとゆらりとゆれる、なめらか
  2. 謙虚さ→
  3. 秘めた巨大なエネルギー→強い、まっすぐ
  4. その他→ただそこに‘‘在る’’状態、透き通っている

かな……?

 

自分を主張せずに自然に低いほうへ流れる=争うことなく自然の摂理に従う、という意味なのですが、今のわたしには簡単にしか解釈できません。

元から争いは苦手ですし地位も名誉も欲しくないので、これまで通りの運転で生きます。

 

まとめ

古典の授業を真面目に受けた記憶がないので驚きました。難しいイメージがあったのですが、案外‘‘当たり前’’のことばかり。それを実行に移して継続するのがとても難しいんですよね。

 

上述した「ただそこに‘‘在る’’状態」は変わらず目指しながら、表には出さなくとも情熱や思いを絶やさず、他者や物事に対しては水のように柔軟に、争うことなく謙虚に生きていこうと思います。

 

 

 

 

宇多田ヒカルとサッカーを好きになった。

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タイトルどおり、宇多田ヒカルとサッカーを好きになった。

 

気づけば宇多田ヒカルばかりを聴いているし、ワールドカップを観て泣く夜を何度も越えた。

 

 

最近のわたしは、昔と比べてだいぶ(自分で言うのもなんだが)やわらかくなったと思う。

昔は「1か100か、白か黒か」という世界で生きていた。合理主義で、無駄が大嫌い。超がつくほどのマイペースで、母親の曖昧な態度に立てついては何度もぶつかった。

 

 

友達が宇多田ヒカルを好きでも「へぇ、そうなんだ」としか答えず、高校時代の恋人がサッカー部でも「ふーん、サッカー部なんだ」で終わり。あとから宇多田ヒカルを聴いたことも、試合を観に行ったこともない。

 

 

相手には相手の好きなものがあって、私とは違う。その姿勢をどう言われようが全く気にしないし、「あなたはそれが好きで、そう生きるのね」と肯定しながらも個人主義を貫く部分や、他人の目を通して自分を認識するところは今も変わっていない。

 

けれど、昔は他人に対して単純に興味がなかったのだろう。それが中学2年の頃に「人間はわかりあえない。私がなにを言っても、理解してはもらえない。理解してほしいなんて思うのは傲慢だし、相手をすべて理解することもできない」と思うようになった。

 

しかし今は、「すべてをわかりあえない。理解しきれないところはあるし、理解してもらえないこともある。でも出来るかぎり寄り添いたい、わかりやすい言葉で伝えたい。理解できなくても、認め合いたい」と強く心に決めている。

 

目の前の人はなにが好きで、なにが嫌いなのか、その理由を相手のことばで教えてほしい。どんなことを考えて生きてどんなことに感動するのか、誰かのことばや受け売りじゃない、相手の声やことばを通して、もっと知りたい。

今まで「別に私には必要ない」と避けてきたものを、いろんな角度から見たい。ふれて、味わっているうちに、もしかするとこれまで知らなかった感情が湧きだすかもしてない。それが楽しみで仕方ない。わたしも知らない自分を見つけられるかもしれない。相手の知らなかった一面を目撃できるかもしれない。

 

 

こんなふうにやわらかく考えられるようになったわたしは、今年、宇多田ヒカルを聴くようになり、サッカーで涙するようになった。

 

あの頃、友達はなにを思ってこの歌を聴いていたのだろう。あの頃の彼の瞳に、ボールはどんなふうに映っていたのだろう。

 

過去に戻ることはできないから、あの頃の自分にこの楽しさは伝えられないし、当時の彼らと感情の共有をすることもできない。

 

でも、いつか未来で彼らに会ったとき、わたしの想像を超えるような面白い話ができるかもしれない。まだ出会っていない誰かと同じ曲を聴いて泣くかもしれない。サッカーを観て飛び上がるかもしれない。

それが楽しみで楽しみで、仕方ない。

 

自転車に乗せて、花束を届けたい

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自転車のカゴにあふれんばかりの花束を乗せ、大切なひとたちに届けたい。

これは、生きているうちに叶えたい夢のひとつだ。

 

 

雲ひとつない澄んだ青空に、白いノースリーブワンピースが丁度いいくらいの気温。肩甲骨よりすこし長い髪をゆるりと巻いてハーフアップにしたら、グリーンのサンダルを履き、レモンイエローの自転車に跨る。

 

日曜日の13時。帽子を被った小さな子どもが母親らしき女性に手を引かれ、日陰を歩いている。空いた右手には赤や黄色で塗られた車のおもちゃを持っていて、いつの日か繋ぐかもしれない小さな手を想像し、ふわりと笑みがこぼれる。

 

勢いをつけ、足を前へ投げ出し、カラフルな住宅街を通る2車線の坂道をくだっていく。グングンとスピードは上がり、道のずっと向こうには、太陽の光をキラキラと反射する海が見えるだろう。青と緑の真んなかの色。あんな色のスカートを持っていたら、きっと毎日履いてしまうに違いない。

 

坂のいちばん下を右折して30メートルほどすると、30代後半くらいの夫婦が経営する花屋があって、キキーッとブレーキの音を鳴らしながら店の横に自転車を止める。

 

そして店に足を踏み入れた瞬間、世界は一変する。視界全体を緑が覆い、ピンクや青、黄色や紫の花が絨毯のように敷きつめられていて、花のにおいがわたしの肌に膜をはる。まるでわたしそのものが花になってしまったかのよう。

 

店の奥には旦那さんと奥さんがいて、「もう出来上がっているわよ」と腕いっぱいの花束を持たせてくれる。花に詳しくないわたしはいつも「おまかせで」とお願いするのだけれど、渡したい相手や理由を正確に汲み取ってくれて、イメージ通りのものを作ってくれるからすごい。

 

首から下げた小さなお財布からお金を取りだし奥さんに渡すと、花束を抱えて元の世界へ戻り、自転車のカゴにしっかりと乗せる。

近くを通ったおばあさんに「綺麗な花束ね」と声をかけられるだろうから、「うふふ、そうでしょう。これから届けに行くのよ」と笑い返そう。

 

サドルに跨り、グン、と右足から漕ぎ始め、果物市場や八百屋のあいだをゆったりと通りすぎると、1人目の家に到着する。薄いピンク色のアパートを見上げると、窓辺に座っていた彼はこちらに気がつき、ひらひらと手を振って家の中に姿を消す。

 

 

こんなふうに自転車で坂をくだったりのぼったり、時おり寄り道をしたりして、大切なひとに花束を届けに行きたい。

 

カラフルな街並みのイメージは、たとえばメキシコのグアナファトとか、フランスのコルマールあたりだろうか。コルマールは‘‘ハウルの動く城’’のモデルになっているらしい。まさしくあんな感じ。

 

 

考えてみれば、今すぐにでも叶えられる夢だ。

フリーランスだからどこに行っても仕事はできるし、今すぐ旅立つことも可能。人生はいつ終わるかわからない。もしかすると明日死んでしまうかもしれない。今叶えられる夢なら、今叶えるべきなのかもしれない。

 

けれど、この夢を見続けることで、わたしの日常と未来は色鮮やかさを増す。

自転車に乗って、大切なひとたちに花束を届ける未来が待っているという確信がある。未来のわたしは間違いなくその夢を叶える。

 

だからその夢は未来のわたしに預けた。未来のわたしが叶えると、決めた。

いつかの日をイメージするだけで幸せだし、今は今やるべきことに注力したいと思う。

 

 

そういう夢のかたちもあるのかな、とぼんやり考えながら、‘‘ハウルの動く城’’のDVDを手に取った。