一歩踏み出す‘‘きっかけ’’

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 まさか、自分が誰かの人生を変えるきっかけになれるとは思ってもみなかった。

 

 知り合って3、4年になる友人が、

「めくばせの姿を見て、このままではいけないと思った。」

と言って笑った。

 彼女は自他ともに認めるワーカホリックで、学生時代はいくつものバイトを掛け持ちしていたと言う。

 彼女が働くことにおいて‘‘楽しいかどうか’’を重視しているようには見えなかった。とはいっても、仕事が嫌いというわけではなさそうで、むしろ身体を動かしていたり、忙しくしていることを好んでいるようにも見える。生活に必要なお金を手に入れるために、日々淡々と仕事をこなしていたのではないだろうか。

 

 好きとか楽しいという感情と仕事を切り離して考えていた(ように見えた)彼女がそう口にしたのは、9月の初めだった。高円寺で美味しいハンバーグを食べていると、目の前の彼女がぽつりとそう言った。

 知り合って3、4年だけれど、ここ最近急速に成長している私を見て、「このままではいけない」と思ったのだそうだ。私の楽しく生きようとする姿や、仕事を楽しもうという姿勢に、自分はこのまま何となく働いていていいのだろうかと疑問に思った、と呟いたのち、「一歩踏み出したいの。Webデザインのスクールに通おうかなって」と笑った。 

 

 涙が零れた。何に関してもまだまだ未熟な私の生き方で、誰かの人生が変わるかもしれないなんて思ってもみなかった。楽しく生きたい一心で積み重ねてきた選択が、こんな未来を連れてくるだなんて。

 誰かの「一歩を踏み出すきっかけ」になれたことが嬉しくて嬉しくて、ハンバーグを食べながら泣いた。その言葉を聞いて、私自身も救われたのだ。

 彼女は今、スクールに通いながら働いている。この先どうなるのかはわからないけれど、今まで考えもしなかった世界に足を踏み入れて、彼女はもっともっと美しくなるのだろうなと考えたら、わくわくが止まらない。

 

 

 「趣味は趣味、仕事は仕事。好きなことを仕事にしたくはない。」と割り切っている人は一定数いるし、それを否定するつもりも全くない。好きなものを好きなままでいるには、ある程度の距離を必要とする人もいるだろう。

 けれど、仕事をしている時間は人生の大半を占める。人生を楽しみたいのなら、まず仕事を楽しむことから始まると思うし、仕事を楽しみたいなら、好きなことでお金がもらえるように努力した方が手っ取り早いと私は思う。短絡的と言われれば「そうかも」と頷くしかないのだけれど……。

 楽しいと心から思えることで誰かを幸せにできて、そのうえお金も貰えるなんて、こんなに幸せなことはないよなあ。

 

 彼女は学生時代よく携帯でホームページを作っていたそうだ。

「爪の先で授業中ポチポチとコードを打っていて、それがすごく楽しかったの」

と懐かしそうに笑う彼女を見た瞬間から、彼女はきっとこの選択を正解に導くのだろうなと確信している。

 

 

 試行錯誤の日々だけれど、思い悩んでいる人が一歩踏み出す‘‘きっかけ’’を作っていけるように、これからも毎日楽しんで生きていこうと思う。

キャリーケースと、心の壺

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 部屋の隅に影を落とす、壊れたピンクのキャリーケースを捨てることにした。片方しか付いていない取っ手を握りしめ、あの日の夜と同じように階段を下る。

 あの日の夜。もういつだったかすらも思い出せないほど、遠い記憶のように思える。とは言っても、今年のことなのだけれど。

 

 

 あの日、荷物と失望をパンパンに詰め込んだこのキャリーケースは、階段を下りている私をそのまま闇に突き落とすかのように、なんの前触れもなくほんとうに突然壊れた。あまりの衝撃に、危うく階段を転げ落ちるところだった。

 

 ただ中身の重さに耐えられなかっただけのことだ。このキャリーケースはもう何年も使っていたし、使うたびに蓄積されていった傷が、たまたまこのタイミングでわっと大きく開いてしまっただけのこと。

 それなのに、私はそれだけのことがどうしても悲しくて仕方なかった。暫く悲しいことが続いて疲れ切っていた心を壊すには、キャリーケースの取っ手が壊れるだけで十分だったのだ。

 

 

 「なんでそんな小さなことでキレてるの?」という思いやりの欠片もない言葉を、ドラマや小説の中でよく聞くけれど、たぶん‘‘そんな小さなこと’’でキレているわけではない。

 

 生きているだけで、心という名の壺に、日々の小さなモヤモヤやイライラが溜まっていく。自分だけが辛いわけじゃないとか、まだ自分は大丈夫だなんて思っているうちに心の壺はどんどん重くなるだろう。

 そうして、自分では持てないほどに重くなってしまった心の壺をどうすることもできないまま、溢れるか溢れないか、蓋をひっくり返すか返さないか、そのギリギリを保つことで必死になる。

 

 まだいける、まだいける、まだいける……ああやっぱり、もうダメかもしれないと思った瞬間、普段なら笑ってやり過ごせるような小さな打撃をくらって、蓋はひっくり返される。‘‘そんな小さなこと’’により戦いの火蓋は切られ、今まで押し込められていたものたちが我先にと壺の中から溢れ出す。

 

 そうなったら最後、もうどうでもいい、なんだっていい、どうにでもなればいい……と、自暴自棄になる人は少なくない。過食に走る人もいれば、逆に何も喉を通らない人もいるし、自分の身体を傷めつけたり、命を断ちたいと思う人だっている。

 幸い私はあの時そう思うことはなかったのだけれど、人間いつどうなるかわからない。もしかしたら、自分の大切な人が本当はいま死の淵に立たされていて、それに気が付けていないだけかもしれない。自分がこの先一生、そうならないとは言い切れない。

 

 

 だから、日々感じている小さなモヤモヤやイライラを逐一解消する必要があるし、なんならそう感じないように自分の考え方を根本から見直すべきなのだろう。

 これからは今まで以上に、自分の大切な人たちを守るために日々の‘‘観察’’を怠らず、相手の立場に立って物事を見続けたい。

 

 

 なんてことを考えながら、壊れたキャリーケースを玄関の隅に置く。

 触っても、もう何とも思わなくなった。今となっては、何がそんなに悲しかったのか、まったく思い出せない。

 

 

やっと好きになれたお風呂と、輪郭の話

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今日は、わたしの最近の楽しみについて書こうと思う。

 

納期が迫る記事を書いていたら文字が解読できなくなってしまったので(ひどく疲れると、文字があることは分かるのに言葉の意味が認識できなくなったり、頭の中で文字がバラバラになって理解できなくなることがある)、息抜きに。

 

 

 

わたしの最近の楽しみは、お風呂だ。

 

恥ずかしながら、わたしはあまりお風呂が好きな子供ではなかった。

もちろん毎日入っていたが、約8年間続けていたダンスの練習後に無理やり湯船に浸からせようとする母を少しだけ恨んでいたし、ここは北極かと思うほど寒い冬の脱衣所は地獄でしかなかった。

青いネコ型ロボットが登場する某有名アニメには、1日に最低3回は入るというお風呂が大好きな小学生の女の子も出てくるが、本当に心の底から理解出来なかった。

「1日の汚れを落とすのは当然だから」お風呂に入るだけであって、そこに「好きだから」という気持ちは微塵もなかったのだ。

 

 

 

そんな思いを数年間抱えていたあの頃のわたし。20歳になったわたしはようやく、お風呂を好きになれました。

と、書いてみて、ふと思う。「好きになれました」。本当は、お風呂を好きになりたかったのだろうか。テレビに映る同じくらいの歳の女の子が好きでお風呂に入っているのに、わたしはどうしてそう思えないのだろうと、劣等感を抱いていたのかもしれない。

 

 

 

仲の良い人は覚えがあると思うが、わたしは興味を持った相手に「お風呂で何をしている時が1番好きか」と必ず聞いている。

今まで何人かに聞いてきたが、なんと全員「シャンプーをしている時」だった。

心理テストではないし、「ああこの人はこういう人間なのね」と勝手に思いを巡らせることもないので安心してほしい。ただ興味があるだけだ。

 

 

お風呂で何をしている時が1番好きか。

 

わたしが1番好きなのは、「クレンジングをしている時」だ。

 

冷たいジェルがスルスルと肌の上を滑って、素肌に戻るあの瞬間。マスカラを塗った少し硬い睫毛が指の腹に触れて、どんどんやわらかくなっていくあの瞬間。温かいお湯と両手が肌に触れて、自分の‘‘輪郭’’が分かるあの瞬間。

下地やファンデーションや口紅が浮き出てきて、息を止めていた肌が深呼吸をする。

お湯で洗い流しているその数十秒の間に、小さい頃「わたしは化粧なんてしない!」と母に宣言したことを毎回思い出す。あれから数年が経ち、しっかりと化粧ができるようになった。そしてできるようになっただけでなく、楽しめるようにもなった。

 

 

 

あとは、「浴室に入ってすぐ、シャワーで身体を流す瞬間」も好きだ。

 

熱いお湯は足からかけましょうと言われたことがあるけれど、そんなことは気にせず、シャワーから勢いよく出るお湯を心臓のあたりに当てる。

湯気と共に、肌に染み付いた微かな香水の匂いも立ち上ってきて、そこでやっと深呼吸ができる。現代の日本人はストレスや緊張状態により、呼吸が浅くなっているそうだ。意識的に呼吸をしないと、そのうち呼吸をすることさえ忘れてしまいそう。

 

いつだったか、こんな言葉を目にしたことがある。「洋服は第2の皮膚だ」。

洋服を脱いだわたしたちは輪郭を失う。足を動かした時に太ももに触れるスカートの裾が太ももの輪郭を教えてくれるし、腕を動かした時に感じるニットとの摩擦によって、腕の存在を確かめる。

わたしたちが普段目にすることのない背中やお尻などは特に、洋服を着て摩擦を感じるからこそ、‘‘ある’’と言えるのではないかと思っている。それを脱いでしまえば、わたしの輪郭がどこにあるのかわからない。

だから、シャワーから流れ出るお湯がわたしの背中に触れた時、ふくらはぎに流れ着いた時、自分には輪郭があるのだ、と確信できる。きちんとここに存在していると安心できる。

もしかしたら、わたしたちが洋服を着たりお風呂に欠かさず入るのは、自分の‘‘輪郭’’を確かめたいからなのかもしれない。

 

 

シャンプーや洗顔をしながら、よくこんなことを考えている。クレンジングをしている最中でも、シャワーで身体を流す瞬間でもなく、本当はこんな風に考えている時間が好きなのかな。

 

皆さんは、お風呂で何をしている時が1番好きですか?

 

「満員電車には乗らない」と決めた

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雨が窓に激しくぶつかる音を聴きながら、照明を落とした部屋のど真ん中でパソコンに向かっている。

車のタイヤが水溜まりを掻き分ける。それがあまりにもやさしい音で、去年の2月に免許合宿で「雨が降っている時も歩行者にしっかり配慮すること」と教えられたことを思い出した。

この天気も明日の朝までだという。世のサラリーマンたちは今、どんな思いを抱えているのだろう。

 

 

 

雨の日の満員電車ほど辛いものはない、と私は思う。それに遅延も加わればなおさらだ。

 

ドアが開くと同時に一斉に押し出される人の波、それと共にホームに流れ込んでくるもわっとした生暖かい風。ガラッと空いた電車内に乗り込むも、先ほどよりも湿度が高くぬるりと重い空気に、胃の奥が悲鳴を上げる。

電車のベルが鳴っているにも関わらず無理に入り込んでくる大人たち、その勢いで歪む身体、知らないだれかの温かい背中、動かせない手の位置、そこら中に漂うあまったるい香水のにおい。

 

まだ、夏じゃないだけ良い。夏の、雨が降っている日の満員電車はもっと酷いからだ。それに比べれば、まだ良い。あの地獄を味わうまでには8、9ヶ月ある。その時が来るまで、地獄よりはいくらかましな満員電車ライフを満喫しよう。

 

 

 

と思ってそこで私は、違う、そうじゃない。と気が付いた。

 

東京という大都会に住んでいる限り、満員電車を避けられないことは、上京してまだ2年も経っていない私にだってわかる。

夏じゃないだけ良い、夏に比べればまだ良い、夏のそれに比べたらいくらかましな満員電車ライフを楽しもう。そう思うしかない。それが死ぬほど無理なら、満員電車という概念すらない地元に帰るか、夏がない国に移住するか、どちらかを選ぶべきだ。

 

 

考えてみれば、ここ最近私は「〇〇よりはまだ良い」と思いながら生きている気がする。

割と多動な人間なので何にでも手を出すし、こだわりが少ないからこそ「やりたくない」ことは決めているつもりだった。

しかし最近は、「このままでいいんだろうか」というもやもやとした気持ちを手放したいのに決断しきれず、最終的には「まあ、仕事があるだけいいだろう」とか「ちゃんと生きられているだけいいだろう」とか言って自分を甘やかしている。

 

 

本当にそれでいいのだろうか。

なにかと比べてまだいい、と思いながら過ごすこの現実が積み重なった時、私はどんな人間になっているのだろう。

 

夏じゃないんだから、夏に比べたら。いくらか良いんだから我慢しよう。

いくらか良いと言ったって、嫌なものは嫌なのだ。自分に言い訳しながら気持ちに蓋をして、いつかそれが溢れ出した時、自分が壊れてしまうことは目に見えているはずだ。

 

 

私は今年の初めに決めたはずだった、「満員電車に乗らない生活をしよう」と。

結局「仕事だから」「東京だから」と自分に言い聞かせてやり過ごしてきたけれど、本当にそれでいいのだろうか。

満員電車に乗らずに済む方法はいくつもあるのに、それを選ばずにこうして愚痴を言っているなんて、進んで嫌な気持ちを味わいに行っているみたいだ。

「乗らない」と自分の中で決めたのなら、それを軸に選択していけばいい。道はいくらか狭まっても、満員電車に乗らないことで心の平穏は保たれる。私はもっと、幸せになれる。

 

 

満員電車に限らず、「このままでいいんだろうか」「本当は嫌なのに」という気持ちを口から出すよりも先に、自分をもっと好きになれるような、毎日楽しいと思って生きられるような道へシフトすべきではないのか。「楽しいと思いながら生きたい」のなら、わくわくする選択を重ねていけばいい。

 

 

なにかに比べたらまだ良いとか、仕事だから仕方ないと言って本当の気持ちを見て見ぬふりするのではなくて、本当の気持ちに沿って選択をすればいいだけだ。

 

「継続は力なり」という言葉があるように、続けていくことは私たちの力になる。続けなければ知り得なかった魅力に気が付けたり、逆に「これは自分には合わないのだ」と自己理解を深めたりすることもできる。

私たちの親やおばあちゃん世代がよく口にする「石の上にも三年」という言葉も同様に、我慢すれば大成する、こともある。

 

ただ、継続は手段であって目的ではない。目的を達成するための手段のひとつでしかないと、私は思っている。

続けることが大事なのではなくて、目的を達成することが大事なのだ。自分に合わないと思うなら違う方法を探せばいいだけであって、生活に支障が出るほど嫌なことを無理に続ける必要はない。

 

 

 

だから私は今改めて、「満員電車には乗らない」と決める。

子供たちに「仕事は楽しいんだよ」って笑って言える大人になれるように、120%ではなくても、毎日幸せだと思える選択をしていく。

未来は日々の積み重ね。幸せな未来を夢見ているのなら幸せな日々を手に入れることから始めよう。

「〇〇よりはまだ良い」なんて言い訳せずに、もっと自分と向き合って、もっと自分を楽しませられる選択をしよう。

 

 

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「ちょっと出てこれない?」に憧れている

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「ちょっと出てこれない?」

 

 

特に観ているわけでもないテレビの音をBGMにして、頭のてっぺんで縛ったお団子をふわりふわりと揺らし、彼のTwitterを遡って「あ~~~~会いたいな~~~~」と心の中で叫びながらベッドにダイブした瞬間。

 

右手の中で振動するiPhone、画面に表示される名前。

咄嗟に押してしまったボタン、「もしもーし」と小さく聞こえてくる愛しい声。

 

心臓がドクドクと脈を打つのが分かる。

早くなる呼吸、震える右手。

思わずベッドの上に正座をする。

 

「あ……はい……もしもし」

 

口から出てきた声はわたしのそれとは思えないほど小さく甘くあたりに広がって、それは電話を伝って彼に届き、何かを察したかのようにクスッと笑う。

どうして、こんな時間に。

平日のこの時間はバイトだと、ついこの間言っていたではないか。

 

 

「ねえ、ちょっと出てこれない?」

 

まるで、秘密基地を見つけた時のような声のトーンで彼は囁く。

目の前がチカチカッと光ったような気がして、わたしは返事をする間もなく電話を切り、そのまま部屋を飛び出す。

 

 

10月の秋の夜風を掻き分けて、ぐんぐん進む。

最近はすごく寒くて、肌にあたる空気の厳しさに悲しくなったりもしたのだけれど、今日はちがう。キンモクセイの香りが走る私を包んで、このまま時が止まってほしいと思う。

 

やさしくてあまい香りに包まれて、大好きな人の元へ走るこの瞬間。コンビニで彼が何度も時計を確認するこの瞬間。考えているのはきっとお互いのことだけで、そのあいだに不純物は一切ない。

 

もう12時を回りそうだとか、明日は1限からだとか、わたしの気配を感じ取った愛犬の吠える声で家族が起きるかもしれないとか、そんなことどうだっていい。

この時間になれば車の1つも走らない田舎に住んでいることを誇りにすら思う。だってこんなにも空気が澄んでいて、瞬く星の下でやさしくてあまいキンモクセイの香りをひとりきりで胸いっぱい吸い込めて、少し走れば、大好きな人に会えるのだから。

 

 

べつに都会と比べるわけじゃないけれど、人がいたらわたしのニヤニヤ喜んでいる顔を見られてしまうかもしれないし、ぴかぴか光る電車内でこのうれしい気持ちが何かに吸い取られてしまう気がする。だから、田舎でいいし、田舎がいい。

 

スキップしながらコンビニに向かおうが、息ができないほど走って転びそうになろうが、暗くて人のいない私の地元なら安心だ。

 

わたしの動きに合わせて光る星たちを暗闇から見つめながら、どうせ会うならもう少しおしゃれしてこればよかったと、少しだけ後悔した。

 

 

 

 

 

私は20年、こういったシチュエーションにずっと憧れている。

 

小説でよくある、呼び出されて、家を飛び出して駆け付けるってやつ。それはもちろんコンビニでなくても、いやむしろ、ファミレスとか喫茶店のほうがいいかもしれない。

 

それに、恋人や好きな人でなくてもいい。友人が「失恋したから付き合って」と言ってきたら何時間だって付き合うし、普段は食べない特大パフェだって一緒に食べる。

ステーキでもいい。夜中のステーキなんて、最高でしかないと思う。お腹いっぱい食べたらコンビニでアイスを買って、ふらふらと散歩をして帰る。最高だ。

 

 

でもこういうのって、本当にない。

 

どうしても会いたい、と思った時に限って相手は既に夢の中だし、そもそも何の準備もせず外に飛び出せない。普段朝の準備に2時間かけている私が、呼び出されて1分もせずに走り出せるわけがない。だから、憧れる。

 

 

たとえばそれができたとしよう。今飲み会から帰ってきたばかりで、化粧は落としてないしそれなりに可愛い服も着ているから、飛び出そうと思えば飛び出せる。

ただ、「今から来て」と言われたのち最終電車に乗って好きな人の駅の近くのファミレスに行くなんて、ロマンチックの欠片もないと思う。まず電車に乗らなきゃいけないところがダメ。やっぱり走らなきゃ。走れる距離ではないことの方が多いけどね。

つまり私がこの夢を叶えるためには、化粧を落としてグダグダしていてもそのまま外に出られるほど可愛い女になって、夜空に星が瞬く田舎に住むしかないということだ。そして走る。無理がある。

 

 

ということで、この夢は(都会に住み続ける限り)叶いそうにないが、いつかそうやって呼び出される日を心待ちにして、自分磨きを怠らないようにしようと思う。

キッチンとわたしと「好き」と

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蛍光灯が申し訳なさそうに光るキッチンで、わたしはひとり、アツアツのご飯とひきわり納豆を口の中にかきこんでいた。

 

改札前で恋人に月末までの別れを告げ、電車内に乗り込んだあと、少しだけ泣き出しそうになりながら、家に帰ったらキッチンでひきわり納豆を食べてやる、と決めていたのだ。

別れ際、うまく笑えていただろうか。

 

 

 

先日、幼馴染がお酒を手に、こんなことを言っていた。

 

 

「彼の心変わりは怖くない。怖いのは、自分の気持ちが変わってしまうことだ」

 

 

彼女には、中学生の時から付き合っている恋人がいる。別れたこともあるが、もう5年も彼を想い続けている。

彼が新しく車を買うつもりでいること、今の‘‘恋人’’という立場では強く否定できないこと。彼の休日出勤が重なって、もしかしたら正月まで会えないかもしれないこと。大学を卒業したら籍を入れようと思っていること。「彼と家族になりたい」と笑う彼女を見て、保育園の頃の彼女を思い出した。今年でわたしたちは20歳になった。

 

積もりに積もった話を終え、ふう、と息をついた時に、彼女はさっきの言葉を発した。

 

 

 

 

わたしは吉本ばななの『キッチン』を閉じると、隣に座り本を読む恋人の長くて密度の高い睫毛を見つめながら、この人と別れたいと思う日がくるのだろうか、なんてことを考えていた。

 

長い前髪の隙間から覗く瞳や、わたしよりも大きく形の良い指先、騒がしい場所ではよく聞き取れないほど低くてあまい声、世界から身を潜めるような猫背。どれも、彼が彼としてこの世界に存在するためにすべて正しいかたちをしている。

彼の輪郭をなぞることを止め、それらから目を逸らし、伸ばしてくる手を避け、視線を合わせぬまま別れを告げようとする日がいつか来るのだろうか。

 

出会いに別れはつきものだから、出会ってしまった以上、別れて恋人ではなくなるか、死別するかのどちらかしかないと思うのだけれど。

もう愛せないと思う日が来るのかもしれないという静かな恐怖が、蛇口から滴るしずくが大きくて歪な円を作るように、わたしの心に広がった。

 

 

 

 

人の気持ちは変わりゆくものだ。仮に恋人が心変わりしたとしても、わたしは冷静に仕方ないよなあ、なんて思うだろう。今の「好き」という言葉は、これからの「好き」を保証するものではない。「好き」という言葉は、今この瞬間の言葉でしかないのだ。

 

悲しいことや辛いことはわたしたちの意思に関係なく訪れるし、それらを通して自分の中の価値観がガラリと変わることもある。

日々変わりゆく社会で生きて、毎日朝が来るたびに昨日とは違う新しい自分になるのに、それでもずっとなにかを「好き」でい続けるには、並々ならぬ努力が必要だろう。

 

相手に好きでい続けてもらえるように、相手を好きでい続けられるように、変わっていかなければならない。お互いが日々少しずつ変わっていくことを、ちゃんと受け入れなければならない。

……なんて書いたけれど、これであってるのかなあ。

 

 

 

わたしがこれだけ怖いと感じるのだから、5年も隣にいて結婚も考えている幼馴染の恐怖といったら、わたしのそれとは比じゃないはずだ。

今こんなに好きなのに、5年もの時間をふたりで過ごしてきたのに、一生傍にいる覚悟だってあるのに、それでもある時「好きじゃない」と思う日が来るのかもしれない。

相手の心変わりは許せても、自分が心変わりするなんて許せない。

 

 

 

恋人に手を引かれながらそんなことを考えたのち、わたしは満員電車に揺られた。

まったくの赤の他人とは嫌でも密着するほかないのに、わたしの様子がおかしいと感じていたであろう恋人には最低限しか触れられなかった。

 

 

スーツを着た男性たちに押されまくってもなおツムツムに夢中になっている女性を見た時、今日はキッチンで立ち食いしちゃおう、と決めた。行儀が悪いなんてことは分かっているし、もしそこに恋人がいたら「ちゃんと座って食べなさい」と椅子まで連れて行かれるだろうけれど。

それでも今日はどうしてもいつもとは違うことがしたくて、スーパーのグレーのカゴにひきわり納豆を放り込んだ。別れ際の恋人の悲し気な表情を、頭の中で再生しながら。

 

 

20歳になって大人の仲間入りを果たしたのだから毎日ご機嫌でいよう、そう決めていたのに、決意してたったの4日でこれだ。

 

スーパーのレジ袋を右手に下げたわたしはキッチンに立ち、今日1日中ずっと笑顔だった恋人のことを思い出していた。