キャリーケースと、心の壺

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 部屋の隅に影を落とす、壊れたピンクのキャリーケースを捨てることにした。片方しか付いていない取っ手を握りしめ、あの日の夜と同じように階段を下る。

 あの日の夜。もういつだったかすらも思い出せないほど、遠い記憶のように思える。とは言っても、今年のことなのだけれど。

 

 

 あの日、荷物と失望をパンパンに詰め込んだこのキャリーケースは、階段を下りている私をそのまま闇に突き落とすかのように、なんの前触れもなくほんとうに突然壊れた。あまりの衝撃に、危うく階段を転げ落ちるところだった。

 

 ただ中身の重さに耐えられなかっただけのことだ。このキャリーケースはもう何年も使っていたし、使うたびに蓄積されていった傷が、たまたまこのタイミングでわっと大きく開いてしまっただけのこと。

 それなのに、私はそれだけのことがどうしても悲しくて仕方なかった。暫く悲しいことが続いて疲れ切っていた心を壊すには、キャリーケースの取っ手が壊れるだけで十分だったのだ。

 

 

 「なんでそんな小さなことでキレてるの?」という思いやりの欠片もない言葉を、ドラマや小説の中でよく聞くけれど、たぶん‘‘そんな小さなこと’’でキレているわけではない。

 

 生きているだけで、心という名の壺に、日々の小さなモヤモヤやイライラが溜まっていく。自分だけが辛いわけじゃないとか、まだ自分は大丈夫だなんて思っているうちに心の壺はどんどん重くなるだろう。

 そうして、自分では持てないほどに重くなってしまった心の壺をどうすることもできないまま、溢れるか溢れないか、蓋をひっくり返すか返さないか、そのギリギリを保つことで必死になる。

 

 まだいける、まだいける、まだいける……ああやっぱり、もうダメかもしれないと思った瞬間、普段なら笑ってやり過ごせるような小さな打撃をくらって、蓋はひっくり返される。‘‘そんな小さなこと’’により戦いの火蓋は切られ、今まで押し込められていたものたちが我先にと壺の中から溢れ出す。

 

 そうなったら最後、もうどうでもいい、なんだっていい、どうにでもなればいい……と、自暴自棄になる人は少なくない。過食に走る人もいれば、逆に何も喉を通らない人もいるし、自分の身体を傷めつけたり、命を断ちたいと思う人だっている。

 幸い私はあの時そう思うことはなかったのだけれど、人間いつどうなるかわからない。もしかしたら、自分の大切な人が本当はいま死の淵に立たされていて、それに気が付けていないだけかもしれない。自分がこの先一生、そうならないとは言い切れない。

 

 

 だから、日々感じている小さなモヤモヤやイライラを逐一解消する必要があるし、なんならそう感じないように自分の考え方を根本から見直すべきなのだろう。

 これからは今まで以上に、自分の大切な人たちを守るために日々の‘‘観察’’を怠らず、相手の立場に立って物事を見続けたい。

 

 

 なんてことを考えながら、壊れたキャリーケースを玄関の隅に置く。

 触っても、もう何とも思わなくなった。今となっては、何がそんなに悲しかったのか、まったく思い出せない。