宇多田ヒカルとサッカーを好きになった。

f:id:winking:20180712225841j:plain

 

タイトルどおり、宇多田ヒカルとサッカーを好きになった。

 

気づけば宇多田ヒカルばかりを聴いているし、ワールドカップを観て泣く夜を何度も越えた。

 

 

最近のわたしは、昔と比べてだいぶ(自分で言うのもなんだが)やわらかくなったと思う。

昔は「1か100か、白か黒か」という世界で生きていた。合理主義で、無駄が大嫌い。超がつくほどのマイペースで、母親の曖昧な態度に立てついては何度もぶつかった。

 

 

友達が宇多田ヒカルを好きでも「へぇ、そうなんだ」としか答えず、高校時代の恋人がサッカー部でも「ふーん、サッカー部なんだ」で終わり。あとから宇多田ヒカルを聴いたことも、試合を観に行ったこともない。

 

 

相手には相手の好きなものがあって、私とは違う。その姿勢をどう言われようが全く気にしないし、「あなたはそれが好きで、そう生きるのね」と肯定しながらも個人主義を貫く部分や、他人の目を通して自分を認識するところは今も変わっていない。

 

けれど、昔は他人に対して単純に興味がなかったのだろう。それが中学2年の頃に「人間はわかりあえない。私がなにを言っても、理解してはもらえない。理解してほしいなんて思うのは傲慢だし、相手をすべて理解することもできない」と思うようになった。

 

しかし今は、「すべてをわかりあえない。理解しきれないところはあるし、理解してもらえないこともある。でも出来るかぎり寄り添いたい、わかりやすい言葉で伝えたい。理解できなくても、認め合いたい」と強く心に決めている。

 

目の前の人はなにが好きで、なにが嫌いなのか、その理由を相手のことばで教えてほしい。どんなことを考えて生きてどんなことに感動するのか、誰かのことばや受け売りじゃない、相手の声やことばを通して、もっと知りたい。

今まで「別に私には必要ない」と避けてきたものを、いろんな角度から見たい。ふれて、味わっているうちに、もしかするとこれまで知らなかった感情が湧きだすかもしてない。それが楽しみで仕方ない。わたしも知らない自分を見つけられるかもしれない。相手の知らなかった一面を目撃できるかもしれない。

 

 

こんなふうにやわらかく考えられるようになったわたしは、今年、宇多田ヒカルを聴くようになり、サッカーで涙するようになった。

 

あの頃、友達はなにを思ってこの歌を聴いていたのだろう。あの頃の彼の瞳に、ボールはどんなふうに映っていたのだろう。

 

過去に戻ることはできないから、あの頃の自分にこの楽しさは伝えられないし、当時の彼らと感情の共有をすることもできない。

 

でも、いつか未来で彼らに会ったとき、わたしの想像を超えるような面白い話ができるかもしれない。まだ出会っていない誰かと同じ曲を聴いて泣くかもしれない。サッカーを観て飛び上がるかもしれない。

それが楽しみで楽しみで、仕方ない。