存在を祝福する

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過去と対話する機会があって、そのために米津玄師のLemonを聴いたら嗚咽が止まらなくなるほど泣いてしまった。悲しみという名の水が身体のなかに溜まって、たぷたぷ音を立てている。

 

悲しみをバネに行動しろ、悲しむことなんて生産性がないと外野のわたしが煩い。こういう時は「お前外野だろ」って締めだして悲しみに浸るのが一番だ。

 

外野のわたしがそう言うことで鼓舞される時とそうでない時の違いは、「今自分でどうにかできる問題か」だろう。自分の力ではどうしようもない答えの出ない問いには参ってしまう。「そうなる運命だった」「神様は乗り越えられる壁しか用意しない」、自分を説得する言葉なんて幾らでも思い浮かぶし、理由をつけたほうが楽になれることだって知っている。

 

(理由をつける=丸め込もうとしている訳ではないことはわかっているが)そう簡単に丸め込めるほど大人でもなくて、そもそもそんな簡単に丸め込みたくなくて、こんなふうに時おり過去へ歩み寄っては中学生の自分を抱きしめている。

もし今その頃に戻れたとして、目の前に現れた未来のわたしが「運命」の2文字で説得してきたら、あまりの残酷さに命を絶ってしまうのではないかと本気で思う。

 

「これで良かったのだ」と思う瞬間も増えてきてはいるけれど、根本的には何も解決していないし今後も解決することはないという事実こそが悲しみの原因なのかも。

 

そういえば、ブログのタイトルを「存在を祝福する」に変えた。過去も含め世界のすべてを愛し、すべての存在を祝福したい。過去のわたしは、今のわたしの光である。